ほねぐみ

本、映画、ゲームの感想など徒然

【タコピーの原罪】暴力と自他の関係

[第16話]タコピーの原罪 - タイザン5 | 少年ジャンプ+

ぶじ(?)最終回を迎えて。
一つ不思議に思っていたことがあって、人に話したらその意見にガッテンガッテンだったので綴っていきます。ラストについては特に言及していません。

ずっと不思議だったのは、タコピーに「死」という概念があるっぽいこと。「自殺」「他殺」「暴力」を理解するのは難しいのに、「死」はわかるのが矛盾というか、つじつまが合わない気がしてすごく不思議でした。
「死」はわかるのに、どうして暴力行為を認識できない(母星にはない)のかと。あれだけいろんな道具を作る技術と文明があって、でも他殺や自殺はないってどういうこと? 争わずにいられるのはいったいどんな精神性?? とうまく想像できずモヤモヤしていました。

そんな話を人にしたところ「ハッピー星人たちは自他の境界が薄いのでは」と言われ、ようやく納得した次第です。
いわく、ありとあらゆる精神・物理的ダメージは、「自分」と「他人」という区別があるから成り立つ。我々人間は自他の線引きがはっきりしているから、人と自分を比べて妬んだり恨んだりして暴力の引き金となるけれど、タコピー達にはその区別が曖昧なのではないかと。自分と他人の区別がないから、「あいつを害してやろう」とか、自分の命を張って何かしても「自己犠牲」とは捉えないのではないか、とのことでした。ようは赤ちゃんのときみたいな、母子一体の感覚に近いのでしょうか。
もし本当にそうだとしたら、想像するとハッピー星の人たちちょっと怖いです。いやあちらからしたら絶えず争ってる人間の方が怖いだろうな……という話はさておき。

知人のこの考えを聞いて大納得。同時に、自他の感覚が薄い(かもしれない)タコピーが、それでも「しずかちゃん」という個人を見て「彼女を大切にしたい」と思ったのは意味あることなのではとも思いました。ただ、しずかちゃんを「かけがえのない」と思ったからこそ、いっぱい間違えたし他の人たちを傷つけもしましたが。

生きている限り、誰にとっても「自分」とはごく当たり前の存在です。精神は目で見ることも触れることもできないのに、なぜか「ある」「存在する」と強く思い込むことができる。そんな曖昧なものに触れて「あの人が大事」とか「自分を慈しむ」とか、よくできるよな正気の沙汰ではないよなぁ……とときどき思います。
これは恋愛について考えるときも思うことで、恋愛って「特定の誰かをいっとう大事に思う」あたたかで柔らかな感情のはずなのに、ときに誰かを傷つけるのがすごいなと。誰かを思うがゆえに誰かを傷つけるってものすごいブーメラン。なぜ人間はこんな在り方しかできないのかと、ため息をつきたくなります。

「あの人/自分 を特別だと思う」ことから離れられたら、争いはなくなるのでしょうか。でもそれはなんだか少し、味気ない人生になる気もします。ただ、こんなふうに思うことこそ「自分は不完全な存在だな」とも思う。

そして過去に書いた記事。
suminotosyo.hatenablog.com

suminotosyo.hatenablog.com


読み終わってみて思うのは、すごく感銘を受けたわけでもなく、登場人物もストーリーも正直そこまで好みではありません。それなのにどうして3本も記事を書いているのか、ということ。我ながら謎です。いったい何に突き動かされているのか。ひょっとするとしずかちゃんたちも「なんであのタコにこんなにも……?」と同じ思いだったのかもしれない、なんて妄想しました。