ほねぐみ

本、映画、ゲームの感想など徒然

【買ってよかった】アーキス メカニカルキーボード

最近の作業のお供。
ノートPCユーザなので、ずっと付属キーボードを使っていました。特に不満はありませんでしたが、家での作業が増え、付属キーボードを使うとなると目線の高さが合わない…肩こり…首痛い……と感じるようになったので購入。
正直、高い買い物ではありましたが……! 見た目と打鍵感、そしてテンキー付きというところがいい!
keychron K8(↓)と迷ったものの、アーキスは店頭に置いてあって試し打ちできました。ほどよい打鍵感と打鍵音だったのでアーキスに決定。
(keychoronはテンキーレスなのが残念)


タイプは一番音が心地よかった静音赤字軸。打鍵感はしっかり目で、「カチャカチャ」「スコスコ」という感じ。わりと大きめの音が出ます。自分は作業中も音はまったく気にならない(むしろ好きです)が、オンラインでつながった相手にはきっと聞こえるはず。それくらい音がします。
力抑えめで打てば「カチャカチャ」音を減らすことはできるものの、オンライン会議等でタイピングをよくする場合には向かないと思いました。

一番買ってよかったと思う点は「作業時のテンションが爆上がり」なこと。全体的な色合いと、左上のキーだけ真っ赤なのが好みです。
お迎えして数ヵ月経つし、毎日のように使っています。それなのにほぼ毎日テンション上がれるってすばらしいのでは……?
文字入力が楽になった・早くなった感じは特にないものの、キーを打つ楽しさは明らかに上がりました。とにかくなんでもいいので文字を打たせてほしい。そんなジャンキーみたいなことを思っています。キーの触り心地が良いのもプラスポイント。無駄にキーに指を置いてしまう。
黒だからもう少し汚れが目立つかと思いましたが、そんなことはありません。指紋や汚れが付きにくい素材だと思います。

逆に失敗したというか後悔している点は「重さ」です。フルサイズというのもあってかなり重量ずっしり感。落としたらたぶんどこかしら壊れる。なので運ぶときは命がけ……とは大げさですが「絶対に落とすものか」の精神で出し入れしています。常に出しっぱなしていられる人向けかもしれません。
あと外に持ち運ぶのは無理だと思います。やろうと思えばできなくはない……? かもしれませんが、持ち運びを想定した作りではないと思います。とにかく重い! この点だけはリサーチ不足が否めません。

そうはいっても値段(予算)・見た目(好み)・キーボードサイズ(用途)的に最適解だったと自負しています。末永く大事に使っていきたい。

【タコピーの原罪】暴力と自他の関係

[第16話]タコピーの原罪 - タイザン5 | 少年ジャンプ+

ぶじ(?)最終回を迎えて。
一つ不思議に思っていたことがあって、人に話したらその意見にガッテンガッテンだったので綴っていきます。ラストについては特に言及していません。

ずっと不思議だったのは、タコピーに「死」という概念があるっぽいこと。「自殺」「他殺」「暴力」を理解するのは難しいのに、「死」はわかるのが矛盾というか、つじつまが合わない気がしてすごく不思議でした。
「死」はわかるのに、どうして暴力行為を認識できない(母星にはない)のかと。あれだけいろんな道具を作る技術と文明があって、でも他殺や自殺はないってどういうこと? 争わずにいられるのはいったいどんな精神性?? とうまく想像できずモヤモヤしていました。

そんな話を人にしたところ「ハッピー星人たちは自他の境界が薄いのでは」と言われ、ようやく納得した次第です。
いわく、ありとあらゆる精神・物理的ダメージは、「自分」と「他人」という区別があるから成り立つ。我々人間は自他の線引きがはっきりしているから、人と自分を比べて妬んだり恨んだりして暴力の引き金となるけれど、タコピー達にはその区別が曖昧なのではないかと。自分と他人の区別がないから、「あいつを害してやろう」とか、自分の命を張って何かしても「自己犠牲」とは捉えないのではないか、とのことでした。ようは赤ちゃんのときみたいな、母子一体の感覚に近いのでしょうか。
もし本当にそうだとしたら、想像するとハッピー星の人たちちょっと怖いです。いやあちらからしたら絶えず争ってる人間の方が怖いだろうな……という話はさておき。

知人のこの考えを聞いて大納得。同時に、自他の感覚が薄い(かもしれない)タコピーが、それでも「しずかちゃん」という個人を見て「彼女を大切にしたい」と思ったのは意味あることなのではとも思いました。ただ、しずかちゃんを「かけがえのない」と思ったからこそ、いっぱい間違えたし他の人たちを傷つけもしましたが。

生きている限り、誰にとっても「自分」とはごく当たり前の存在です。精神は目で見ることも触れることもできないのに、なぜか「ある」「存在する」と強く思い込むことができる。そんな曖昧なものに触れて「あの人が大事」とか「自分を慈しむ」とか、よくできるよな正気の沙汰ではないよなぁ……とときどき思います。
これは恋愛について考えるときも思うことで、恋愛って「特定の誰かをいっとう大事に思う」あたたかで柔らかな感情のはずなのに、ときに誰かを傷つけるのがすごいなと。誰かを思うがゆえに誰かを傷つけるってものすごいブーメラン。なぜ人間はこんな在り方しかできないのかと、ため息をつきたくなります。

「あの人/自分 を特別だと思う」ことから離れられたら、争いはなくなるのでしょうか。でもそれはなんだか少し、味気ない人生になる気もします。ただ、こんなふうに思うことこそ「自分は不完全な存在だな」とも思う。

そして過去に書いた記事。
suminotosyo.hatenablog.com

suminotosyo.hatenablog.com


読み終わってみて思うのは、すごく感銘を受けたわけでもなく、登場人物もストーリーも正直そこまで好みではありません。それなのにどうして3本も記事を書いているのか、ということ。我ながら謎です。いったい何に突き動かされているのか。ひょっとするとしずかちゃんたちも「なんであのタコにこんなにも……?」と同じ思いだったのかもしれない、なんて妄想しました。

【ID:INVADED】早く続編が観たい(切実)

人間いつ死んでしまうかわからないので「悔いなく生きる」が日々のモットーです。ただ「この日を迎えるまで絶対死ねない」というイベントがときどきあり、その一つが「id:INVADED」関連。
アニメを観たのは放送終了後。ですが漫画はリアルタイムで追っていたので「次巻が出るまで生き延びねば……!」と毎回思ってました。まじめに。コミックスが早めに終わってくれてよかった。緊張感の続く生活とおさらばできました。

「ID」は登場人物の性格とビジュアル、ストーリー、カメラワーク、音楽と、とにかくありとあらゆる部分が良い。連続殺人鬼がもつ殺意の世界「イド」に潜り込んでのプロファイリングというコンセプトもおもしろく、毎回イドの世界で何が起こっているのか、その攻略や現実世界とのリンクをハラハラしながら見守っていました。
第一話を観終わったときはあまりの完成度の高さに「映画か……?」とエンディングを呆然と眺めていた覚えがあります。

あともう一つおもしろいのは、解き明かされるうちに殺人犯たちに感情移入してしまうところ。感情移入というか憐憫の情がわいてしまいます。これはひょっとしたら自分だけかもしれませんが……。
殺人犯たちのしたことは許しがたい。ただ、最後は必ず「なんか可哀想だな」と思ってしまいます。どうしてそう思うのかはよくわかりません。イドの世界に入って、彼らの人となりや思いを汲んでしまうからでしょうか。やっていることは「ひどい」以外のなにものでもないのに、なんだか気の毒なんだよなぁ。「許しがたい」と「可哀想」という感情が、まさか自分の中で両立するとは思いませんでした。

穴空きも墓堀りも花火師も対マンも、ジョン・ウォーカーでさえ、やっていることは通り魔。でもみんななんだか気の毒。
「ID」を観ていると、被害者だけでなく犯人たちもまた通り魔に遭ってしまったように見えるんですよね。自分の考えや行動を歪ませてしまう、正体不明の「何か」に突然行きあたってしまった。まるで狐か悪魔に憑かれたみたいに。そうした制御できないものに突き動かされ、犯行を重ねているように見える。自身の願望が生んだ衝動かもしれないとはいえ、コントロール不可能なものと付き合うのはしんどいだろうなと。
犯人たちが殺人に手を染めるのは何かしらきっかけがあって、それさえなければ今も普通に暮らしていたかもしれない。彼らの生き方・在り方を歪ませた「何か」と、それにより亡くなった人たちのことを思うと、なんだかなぁとやりきれません。
また主人公・鳴瓢も巻き込まれたうちの一人なもんだから、さらにこう、やるせない気持ちになるというか。いっとう大切な人たちを失ったから今の鳴瓢さんがいる。そう思うと、人生ってすごく残酷です。

アニメ視聴後、わりとすぐに漫画が発売したのでめちゃめちゃ嬉しかったことを覚えています。漫画を映画化してくれないかな……車の走行シーンが多いので、すごく映像映えするのでは。もし映画化したら2回は観に行きます(気が早い)。
アニメの続編もありそうですし、映画かアニメか、なんならまた漫画か、なにかしら新作情報がほしいと待ちわびる今日この頃。もし発表があったら、公開まで指折り数えて待ちます。

【ウォッチメン】オウルの悲哀

suminotosyo.hatenablog.com


この記事にも書いた、オウルのことを腰抜けと思っていたけど彼も彼で大変だろうな……と考えを改めたことについて。実写映画版「ウォッチメン」の話です。
まず、どうしてオウルを「腰抜け」と思ったかというと。
 ・ラストで「俺がなんとかする」みたいなこと言いつつけっきょく見てただけ
 ・傍観してたのに怒る
 ・怒りの矛先をDr.マンハッタンではなくオジマンディアスに向ける
以上の3点です。

何とかすると言いつつ、けっきょくロールシャッハにはかける言葉もなく見ていただけ。しかもDrではなくオジマンに怒りの矛先を向けたのは、Drだと返り討ちにされると思ったからでは。だからまだ人間味があって、受け止めてくれそうなオジマンに怒ったように見えてしまいます。もしあの場に自分がいたら「おまえに怒る資格はねぇー!!」と頭をすこーんと叩きたい。
オウルが「自分はどう思うか、どうしたいか」と立場をもっと明らかにした上だったら、自分もここまで文句は言わなかったと思います。でもなんだかロールシャッハ、オジマン、Dr.マンハッタンの3人と比べると、彼は自分の考えを持っていない気がする。すべて流されるまま、ことなかれ主義に見えてしまいます。だから余計にじれったいというか、見ていてイライラしてまう……(炎)

ここまでさんざん貶しましたが、とはいえオウルの在り方もけっこうしんどいのではないかなと。ロールシャッハやオジマンディアスほども振り切れず、Dr.マンハッタンほどの力もない。ヒーロー殺しを懸念していても、コメディアンやロールシャッハほど警戒されないってある意味すごい能力では。さほどの行動力も影響力もない、無害な人物とみなされたってことでしょ……?
すべてを知った上でもこれまでと同じように暮らしていける適応力の高さをおそらくオウルは持っていて、そうした彼の「普通さ」にロールシャッハは救われていたのではないかと想像。たぶんロールシャッハだけではなく、Dr.マンハッタンやオジマンディアス、ローリーも同じでしょう。だから最後、他の誰でもないオウルが怒ったのだし、彼だけが怒ることを許されたのだと解釈しています。

普通さがあったとして、それは他のヒーローたちと比べての話で、一般人と比べたらやはりオウルは外れ値。もちろんロールシャッハよりは一般人枠寄りでしょうが……かぎりなく「普通」に近いけれど、一般人にはなりきれない。突き抜けることも「普通」に徹することもできないオウルは、誰よりしんどい気がします。「どっちつかず」を永遠にいくしかないということなので。

またドラマ版でのオウルが哀愁を誘います。どういった経緯かはわかりませんが、たった一言で片づけなくてもいいじゃない……さすがに不憫で、遠い目になりました。

【キャラクター】映画と小説の違い

小説版を読みました。もう少し時間をおいてからにしたかったのですが堪えきれず。

映画版との違いはラストだけかと思いきや、ストーリーの細かな部分と出てくる人物、人となりが異なります。そのため、なんだか別の話みたいに感じられました。映画は見栄え重視、小説は細かなストーリー運びと人物描写重視といった感じでしょうか。
媒体に合わせてここまで変えていいのだと、勉強になりました。「見せ方」や「重きのおきどころ」が変わってくるのがおもしろいです。

小説版だと、風景描写と人物の生い立ち・心理描写があるので、映画ではよくわからなかった点も補完できます。ただページ数は多くありませんし、書き方はあっさり薄味めで少し物足りなさも。自分とは何か、悪意とは、また現実とはと興味深いテーマばかりなので、心理・状況描写がもう少し欲しかったです。

そして気になっていた「主演2人がラストに何を考えていたか?」は、わかってよかった点と見込みが外れてしょんぼりした点とがあり。しょんぼりポイントの「しょんぼり度」が自分の中でけっこう大きく、いま回復に努めているところです。回復できるかな……。

あとすごくおもしろいと感じたのは、小説だと両角君の存在が薄いところ。小説版だと両角君、実はぜんぶ山城先生の妄想なのではないかという感じがします。リアリティが薄いというか。生い立ちもわかるし、なんなら両角君視点の描写もあるのに、存在が疑わしい。
映画版だと台詞もあまりないし、なに考えているかもわかりません。それなのに、映画版の方が存在感があることが不思議です。実在の俳優さんが演じているからかもしれません。

【キャラクター(ネタバレあり)】虚構と現実

本当は劇場で観たかったのですが、当時立て込んでいたか何かでタイミングが合わず。先日アマプラで視聴したあとも「やっぱり映画館で観たかった……!」と思いました。

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【屍鬼】いつか読み返したい心の殿堂入り

高校二年生のとき、なぜかふと気になって読みました。文庫版5巻を、二日で一気に読んだことを覚えています。二日目はほぼ徹夜で、深夜にぼろくそ泣いて呆然としたことも。
そこから再読していませんし時間が経っていることもあり、細かいところは記憶がおぼろ気です。ただ「ごっつ泣いた」ことと「ラストの衝撃」が今も残っていて、この本は心の殿堂入りを果たしています。

 

本作はたくさんの登場人物がいて、みんな生い立ちも考えも、たどる結末もさまざま。
そして終盤はそれぞれの思考と葛藤、選択が怒涛のように押し寄せて、それだけでもう飽和状態になりました。

読了後は一人ひとりの思考と感情をトレースしたり、「あの人はこれからどう生きていくんだろう…」と考えたりして、しばらく頭の中が戦場でした。
自分のふだんの生活と、物語「屍鬼」の中で描かれていることとのギャップがありすぎて。頭の中は「屍鬼」なのに、自分の生活は日々淡々と過ぎていく。
平和であることのありがたさと、彼らにはその平和が続かなかったことと。本当、あの人やあの人はこれからどう生きていくんだろうと、沈みながら生活していた覚えがあります。

 

一番揺さぶられたのは、静信さんと沙子ちゃんです。
関係性もすっごく好きで、二人が一緒に話しているだけで悶えてました。「お互いに相手の苦しみが想像できて、感化し合うことができる」ってすさまじく尊い関係だと思うんです。
ただ、静信さんが最後に語った「なぜ生きなければならないのか(だったかな?)」は5~6回読みましたが意味がよくわかりませんでした。今だったらわかるかな、と淡い期待を抱いています。

他にも揺さぶられた人はたくさんいて、夏野の兄貴分と看護師さんの二人、あと沙子父、執事。木の上にいた看護師さんも(かなり記憶が曖昧なので、名前もわからない上に役割も違っているかも……)

主人公格の尾崎先生と夏野君には、特に何か思った記憶がありません。
尾崎先生は若干ありますが、夏野君はほぼなし。読んだ当時、年齢が近かったですしもう少し何か思うところがあってもよさそうなのに、どうしてなのか。逆に大人になった今の方が、夏野君には感化されるかもと想像してます。

 

いつかまた再読したいと、読み終わった直後くらいからずっと思っています。ただ勇気が出ません。
あの頭をガンガン揺さぶられるような衝撃をまた味わうのか……と思うと、おいそれと手が出せず。でも大人になった今、読んでみるとまた感じ方が違う気もするので、楽しみなのも確か。そう遠くないうちに再読したいです。